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4.222019
家庭のインクルーシブ
「インクルーシブ」という言葉を聞いた事があるでしょうか?
英語ではinclusiveと表記され、「包括的な」「包み込む」という意味です。
*包括的:全ての要素を広く網羅しているさま、総合的なさまを意味する表現。
また、「インクルーシブ教育」という言葉はどうでしょうか?聞いた事がある方は多いのではないでしょうか?
インクルーシブ教育とは、子どもたち一人ひとりが多様であることを前提に、障害の有無にかかわりなく、誰もが望めば自分に合った配慮を受けながら、地域の通常学級で学べることを目指す教育理念と実践プロセスのことをいいます。
つまり、「一人ひとり丁寧に」と「みんなで一緒に学ぶ」の両方の実現を目指す教育理念であるといえます。
英語ではinclusiveと表記され、「包括的な」「包み込む」という意味です。障害の有無によって学ぶ場所が分けられるのではなく、一人ひとりそれぞれの子どもの能力や困りごとが考慮された、すべての子どものための教育という意味で使われています。
インクルーシブ教育という言葉が広まり始めたのは、1994年にUNESCOによって開かれた国際会議がきっかけです。この国際会議で「Education for All(万人のための教育)」がうたわれ、可能な限りすべての子どもの能力や困りごとに応じた教育を行っていく方向性が公に打ち出されました。インクルーシブ教育の実現に向けて歩むのは日本だけではなく、国際的な流れだといえます。
これまでは、障害のある人は必ずしも社会参加できるような環境にありませんでした。障害のある人が積極的に社会で活躍できる環境づくりの一環として、一人ひとりの子どもに丁寧に向き合う理念に基づいたインクルーシブ教育が推し進められています。
「株式会社LITALICO, LITALICO発達ナビ (https://h-navi.jp/) ・
インクルーシブ教育とは?その考え方や背景、具体的な取組み、課題点についてまとめました。 ・ リタリコ発達ナビよりhttps://h-navi.jp/column/article/35025729 (該当URL)より引用」
インクルーシブ教育について、より分かりやすく上記リンクに書かれておりますので、ぜひお読みいただけたらと思います。
こうしたアプローチを知るたびに考えるのは、
社会、学校の場だけではなく、家庭において、このインクルーシブ的な考えを取り入れる事を、もっと意識しなくてはいけないのではないのか?
という思いが募ります。
育った環境が違うことを忘れてないか?
人は育った環境が基本となり、それがその人にとっての常識となっている事が多々あります。
もちろん、家族以外の人との関わりが広がるにつれて、それらは影響を受けて変化していきますが、変化しない部分もあります。
例えば、交友関係が広がればその友人間での互いの考えが混じり合い、自分がこうだと思っていた事が、実はとある一部を切り取った考えであり、他の視点から見ると違う考えがある事に気が付くでしょう。
買い物1つとっても、今は様々な方法があるし、社会に出れば、それこそ社会人としての常識に触れて、自分の考えていたルールと違った手法を知る事となります。
それらは非常に膨大な量です。
けれど、そうでない部分も必ず残ります。
その、そうでない部分とは何か?
それは、家庭内における、家庭内独自のルール、手法、常識です。
それらは、個々の家庭…両親の育った環境から受け継ぎ、さらに家族構成、育った家の作り、地域も含めて、一人一人違います。
まぁ、そんなの当たり前ですよね。
北海道の人と沖縄の人では、家での過ごし方は環境から受ける影響で全く異なるし、そもそも人は一人一人違うのだから、それだけですでに同じ物はない。
けれど、不思議なもので案外それを忘れてる人って多いのではないかと思うのです。
家庭、家族と一口に言っても構成員は様々なので、単純にお父さんがいて、お母さんがいて…とならない場合もありますが、今回は「夫婦」という単位をスタートとして、家庭でのインクルーシブ環境を整える方法について書いていきたいと思います。
育つ環境
夫婦とは、それぞれ異なる環境に育った2人が共に暮らしていく形態、と私は考えます。
念のため調べると、
「適法の婚姻をした男性と女性(Wikipediaより)」と記載されています。
現在は、事実婚や同性婚など多様な価値観があるので、一概に男女のみ限定とか、婚姻届の有無はここでは重要視しません。
私が伝えたいのは、先に書いたように「異なる環境に育った2人が共に暮らしていく形態」という事です。
育った環境の異なる2人が、夫婦として新たな家庭を築いた場合、そこには2つの常識が混ざり合うことになります。
夫側A妻側Bという常識は、本来混ざり合ったCという、新たな基盤を一から作り上げていく、という事です。
そんなの知ってる?
当たり前?
私も頭ではそう考えてました。
今もそう思いますが、インクルーシブという考えを知った今は、もう少し深掘りして考えるようになりました。
長く一緒に暮らす中で、さらに子供が生まれて、育っていく中で、夫婦関係も、家庭環境も育てていくには、この「混ざり合ったC」を互いに作り上げていく、という意識を、私自身が忘れてたんです。
なぜ忘れていたか?
異なる環境で育った事を忘れて、その中で育まれてきた常識も違うのに、一緒に暮らしてるんだから、言わなくても分かるよね?と勝手に思っていたから、です。
その部分が抜け落ちると、どうなるか?なんて、想像できますよね。
なんで出来ないの?なんで分からないの?なんでやらないの?という摩擦が、どんどん発生して、その摩擦は積み重なって行きます。
家庭のインクルーシブ
最初に書きましたが、
インクルーシブとは「包括的な」「包み込む」という意味です。
これでは、あまりにあいまい過ぎて分かりにくいですよね。
家庭という環境に落とし込む場合、まず必要なのは「異なる環境で育った2人が、新たに2人の常識、手法、ルールを混ざり合わせて作り上げる、関係性を育てる、それが家庭の土台となる」を知っておく事、だと考えます。
もちろん、人は日々変化します。最初からガッチリとした土台は必要ありません。
むしろ、日々の変化…それは家族が増えるなどの変化も含めて、柔軟に作っていけば良いと思うのです。
そうした、変化に対応した土台、先の説明であれば「混ざり合ったC」の中で、それぞれの得手不得手を見つけながら、互いが暮らしやすくするにはどうすれば良いかを考える事、家族一人一人が家庭でも社会でも自信を持って生きる力を身につけられる環境、それこそが家庭のインクルーシブだと、私は考えます。
むしろ、それらは家庭だからこそできるモノではないでしょうか?
例えば、洗濯物。
洗濯機で洗って、干して、畳んで、しまう。
動作説明を書くと簡単に感じます。
しかし、たかが洗濯物にも育った環境の違いは影響するし、さらに新たな混ざり合った環境、ルールを作らなければ、たかが洗濯物でストレスMAXにもなります。
洗濯ネットに入れて洗いたいモノが同じとは限らない。
Tシャツはハンガーにかけて干すのが当たり前ではない。
靴下はクルンとひっくり返して畳む方法だけではない。
夜洗うか、朝洗うか、それは家族の暮らす時間軸でも違う。
1つ1つは、とても細かい話しです。
けれど、それこそが「自分の育った環境では当たり前としていた」事の場合が多く、だからこそ「混ざり合った新たな環境」を作るきっかけであり、引いてはそれぞれの得意不得意を知る糸口となって、互いが暮らしやすくする為に必要な情報だと思うのです。
そして、そうした1つ1つの違いを知る事、その上でこれからはどうすると良いかを考える事こそが、家庭だからこそ出来るインクルーシブではないでしょうか?
生きる力の育つ環境
壮大な言葉で表現しましたが、家庭で行う様々な事は、どんな小さな事もここに行き着くのではないか?と感じます。
ただ。
クドく書きますが、その環境や手法、ルールは、構成する家族、現在の年齢や個々の得手不得手、住んでいる家の間取り、暮らしの時間軸、同じ人は、同じ家庭はありません。
つまり、家庭内におけるインクルーシブは、家庭の数だけあるのだという事を忘れてはいけないし、そこには正しいとか間違ってるとかの判断も無いのです。
これは、私が2人の子供のいる親だから思うことですが、
子供の出来ること、出来ないことは、どうしても目に止まるし、他と比べがちです。
何で出来ないの?と思う事なんて、正直あります。
けれど、人には得手不得手がある、子供だろうが大人だろうが、誰にでもあるんです。
目の前の我が子の得手不得手は何か?
その時、その年齢、その環境、取り巻くモノはとても多いけれど、ただただ、「やりなさい」「もっと早く!」と思うくらいならば、具体的に何に困っているか?何をどうすれば良いか?の工夫を一緒に考える方が、よほど今、目の前にいる子供にとって、生きる力につながるのではないのか?と思います。
そして、それは夫婦にとっても言える事です。
家庭内で行われる全ての行為は、何度もやらないと上手くならない事も多いけど、工夫次第でその時のその子が出来る事を見つければ、小さな事でもその子自身の達成感につながったり、その方法が、学校や、友人関係の中で応用出来る事もあるのです。
その家庭の中で考えた工夫を、人によっては「過保護じゃない?」と思う人がいるかもしれません。
しかし、我が子の不得手を家庭の中で見つけた工夫1つで、その子の抱える困難を乗り越える力につながるなら、過保護とは違う話しじゃないでしょうか?
皆んなが皆んな、同じ方法で出来るわけない。
誰もが自分一人で段取りよくこなせるわけじゃない。
それを知らずに育ってしまうと、自分の常識、手法やルールが世界の全てと思う人になる。
洗濯物にまつわるアレコレだけでも、違うルールが山ほどあるのと同じに。
それぞれのインクルーシブを作るには
あくまで、1つの方法としてですが、私の仕事としている整理収納も、それぞれの得手不得手を考え、互いに暮らしやすくするにはどうしたら良いか?自分はどんな工夫をすれば良いか?
それを見つけられる手段の1つです。
ただただ、「片付けなさい!」と言われても、どこへどう片付ければいいか、分からなかったら片付けようがありません。
片付けろと言われたから片付けたのに、後から「どこに置いたのよ!」と責められても困ってしまいます。
モノは少ない方が探す行為も減り、管理の大変さからも解放されて楽に暮らせるのは確かですが、それが万人に正解とは限らない。
モノが多いけど、だから暮らしが成り立つ人だっている。
捨てる事が解決とは限らない。逆に捨てる事で解決する場合もある。
お互いの当たり前について、どんな違いがあるのか?
お互いの得手不得手はどんな事なのか?
それを合わせて、家族皆んなが暮らしやすい家とは、家族皆んなが使いやすい配置とはどんな状態か?
整理収納は、モノからアプローチする事で、互いの当たり前を発見し、新たな混ざり合った環境を作り上げるには、最適な手段の1つではないかと私は考えます。
「私とあなたは違います」だけでは、社会に出て生きていくにはサバイバルすぎます。
違いを知った上で、ならばどうすれば良いか?
それを発見する力、考える力、実践する力こそが、家庭のインクルーシブで出来る事ではないでしょうか?
その上で、さらに子供の置かれた学びの環境が、得手不得手を凌駕する手法を取り入れられていれば、困りごとを解決するだけではない、その先の子供自身の自信、喜び、生きる力につながると思うのです。
そしてその子供達が大人となり、社会を牽引する立場となった時、家庭でも学校でも、社会でも、それぞれの環境や考えを受け止め、お互いがより良い関係、環境を整えるために工夫する事が、当たり前となれるのではないか?と考えます。
私自身、家庭におけるインクルーシブ環境の構築真っ只中にいます。
子供は成長し、そしてまた、親も同じように変化します。
時々、目を逸らしてしまう事もあるし、憤りを感じる事もあります。
それでも。
日々、自分と家族とが自身を卑下することなく、自信の持ち、これからを生きていく力になる、その為に互いの得手不得手を把握し、補いあえる、工夫する力、考える力を身につける為に今をどうしたら良いか、いつも考えています。
もちろん1人じゃありません。そこには、共に考える家族がいます。
あなたの暮らす環境は、お互いの得手不得手を混ぜ合わせて作っていますか?
家族の得手不得手、目を逸らさず見てますか?
出来ない事を、自分だけの常識に則って、責めてませんか?
もし、それが自分の当たり前と違うと考えてしまうなら、ぜひ家を今の家族が使いやすいように片付けしてみて下さいね。
モノから始まるアプローチは、案外互いの得手不得手が見つけやすい上に、自分独自の当たり前という鎖に気がつくはずですから。
こちらは私の、整理収納と夫婦関係家族関係など様々な事を合わせて書く理由です。合わせてお読み頂けると嬉しいです。
【夫婦生活の悩みは暮らしの一部だからこそ、私が整理収納で解決します。】